「やなぎ屋主人」つげ義春

このマンガには物語りが氾濫している。
風俗嬢の「お話」を聞きに行き、「網走番外地」の歌詞に駆り立てられるように旅に出て行く。宿泊した家で、老婆の身の上話を聞き、そこの娘に対して性的な妄想を抱き、やなぎ屋の主人に納まるという空想をする。
時に歌謡曲のフレーズに激情的に耽溺しながらも、これら溢れかえる物語群にリアリティを失い呆然としている。
物語への信頼を失うことと、間歇的な激情はセットとして存在する。
それまで、つげは異なる価値・物語の関係に目を向けていたが「ゲンセンカン主人」で物語の構造そのものを扱ったあとの、このマンガでは、その物語の機能自体が破綻をきたしている。「いっそ駄目になってしまえたら...どれほど気がらくかしれないと思っていた」というのは絶望という物語にも関与できない事態をいっている。
この「やなぎ屋主人」と前々作にあたる「ゲンセンカン主人」では、他の作品では見られないリアリズムが、画面全体を覆っている。他作品では背景はリアリスティックに描きながらも、人物はマンガ的な処理を施すことで、人物の運動と物語りの展開の有機的な結びつきを確保していたが、ここでは、リアリズムを画面の隅々にまで愚直に推し進めることで、物語が成立する以前の空間を捉えようとする。

マンガの後半では、それまでの深刻な調子から一転、一年後にN浦を訪れた主人公は憑き物が落ちたように歌謡曲を口ずさみ、小説の一説を思い出して、戯れる。
本当に憑き物が落ちたのか、落ちたように振舞っているだけなのか、真偽は定かではない。しかし、これ以降、つげのマンガから物語への葛藤は希薄になっていく。

70年代以降、われわれはシニシズムとパロディの世界を生きることになるが、つげのマンガも、その事態と無縁ではない。つげがシニシズムに開き直ったり、パロディッシュな戯れの快楽に身をゆだねたわけではないが、物語に対する態度として無関係であったわけではない。とういより、むしろ、そのパラダイムの変節を、それが素朴なリアリズムであったとしても、変節の臨界点を描く試みを行っている。