「残菊物語」溝口健二

これも「二十四の瞳」同様、この映画を面白いと感じる、その力の出所が分からない。
ワンシーンワンカット」や、「美しい映像」や、「完璧な構図」もあるだろう。ほとんど舞台のような演技が持つ、舞台演劇の力に拠るところも大きいだろう。かつて劇映画という言い方があったが、演劇が映画にパラフレーズされていく、そのダイナミズムの至福の出会いという言い方もできるのかもしれない。

もはや、この映画の物語の展開や、セリフや、人物造型に何の反応も起こすことは出来ない。陳腐という言葉すら遥か彼方に過ぎ去っている。それに冷笑も、哀れみも、慈しみも覚えない。尊敬も、事後的な勉強だ。ただ、ここを生きた人が居たことは確からしいと感じる。そこにある、役者や、演技や、物語や、撮影機材や、撮影システムで、力の限りを尽くそうとした、その意思に打たれるのだろうか。しかし、そう結論めいたことを一足飛びに言ってもしょうがない気もする。ただ、この映画の力が映画技法の問題だけではないことは確かだ。

センスがいいというのが、一番簡単でしっくりくるかなぁ。戦後にはないセンスの良さ。何を描くかではなく、どう描くか。う〜ん...。舞台役者の演技の力かなぁ。それと映像美の融合...。

それにしても、この映画での関西弁は完璧。関西人からすると、往々にして昔の映画の関西弁には許しがたいものがあるけど、ここにはそんなものは一切ない。