「グラン・トリノ」クリント・イーストウッド

老いて時代に抵抗する白人と、伝統を保持する移民の東洋人家族との関係の成立を、人権などとは、まったく関係のないところで見る。

移民の女の子は、イーストウッド演じる老人に、あなたが自分の父親であったらと言い、自分の父親は抑圧的な古い人間であると言う。その言葉に老人は、俺も古い人間だと答える。女の子は、しかしあなたはアメリカ人だと言い、老人は、それがどうしたと答える。それまで東洋人移民や、黒人に対してあからさまな嫌悪をしめしていた男は、ここで完全に逆転する。しかしそれは、映画においては差別の克服を示しているのではなく、差別の別の側面を示しているにすぎない。イーストウッドは、差別の乗り越えなどを語らない。そんなものは所与のものとして、乗り越えるべき対象にカウントしない。

差別とは、制度として構造化されている場面において問題として浮上するのであって、この映画にあっては、個々の関係における差別は、織り込み済みの条件としてあるにすぎない。この映画はエンターテイメントであることを逸脱してはおらず、一つの理念型として造形されているのであって、楽観的なハッピーエンドであるには違いない。しかし社会のダイナミズムがどこにあるのかを確実に捉えている。