「豊饒の海」三島由紀夫

ラジオで、「妄想シックスティーン」という16歳の頃の妄想を告白するコーナーをやっていて聞いていた。武道館でライブをしている妄想や、有名人と結婚する妄想なんかを紹介していた。オーケストラの指揮者になりたくて、クラシックのレコードをかけながら、買い込んだ読めもしない楽譜を前に、髪を振り乱して指揮者を気取っていたが、ピアノも弾けるようになれなかったので断念した。といった感じの話を紹介していたあと、ラジオのDJがそれに答えて、ピアノも弾けないのに指揮者になれると思う16歳の妄想力が凄いと言っていた。
最近「豊饒の海」を読んだせいで、この種の話にちょっと敏感になっている。
夭折を生きなかったものにとっては、本多のように夭折の美を見出し続けるのか、聡子のように出家するのか、この振幅の両極にその精神の運動は収まるように見えるが、もう一つ、散文という第三の、道ともいえない道、あるいは荒野なのか、あるいは海なのかがある。それは何もない海なのか、豊饒な海なのかは知らないが、たぶん、何もないのではなく、豊饒でもない雑多な海なのだろう。「貧しさ」といってもいいのだろうが、今更そんなキーワードを使う理由は、充分アノミーな我々にはない。
禁断の恋に永遠を見出し、自分たちの歩いている道は桟橋であり先には海しかないと、忘却の決意をした聡子の海と、望遠鏡に広がる海を切り裂く、結果的に何も影響を与えることのできない船の軌跡に存在理由を見出す安永透。その構図を突破する「夭折」に見出すべきは、美ではなく、夭折を生きたと描かれる飯沼勲が、本多の語る“客観的な歴史観”を冷笑したしたことに見られるように、完結する円環の否定としての野垂れ死であろう。飯沼勲自身は別の円環を生きたわけだが。

豊饒の海」を読んだら、柄谷が読みたくなって引っ張り出して読んだ。

「彼は、魔女の言葉と戦うことをやめます。しかし、それは意味や根拠をもとめることをやめるだけです。それは、悲劇としての反復を拒絶することです。本当は、それから彼の闘争が、あるいは反復が始まるのです。この闘争に「理由」や「動機」はありません。たんに自分を殺そうとする敵が眼前にいるからにすぎません。」

三島も自身がフェイクであることに自覚的であり、その「豊饒」もフェイクとしてある。柄谷の「闘争」も、それを踏まえた上での「魔女」に対するそれであり、三島ー柄谷の反復は、様々な形で変奏される。