自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない

日本では「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人が世界中で最も多いという。
日本 38% ・アメリカ 28% ・中国 9% ・イギリス 8% ・フランス 8% ・ドイツ 7%。


生活保護の捕捉率も低い。
日本18%・ドイツ65%・フランス92%・47~90%・スウェーデン82%・アメリカ59%


社会保障給付費も日本は高いほうではない。
GDP費で、日本19%・フランス28%・ドイツ25%・イギリス21%・アメリカ16%。


一方、正社員の「解雇の難しさ」は日本は飛び抜けて高い。
数字が大きいほど難しくなる指数で、デンマーク1.20・イギリス1.40・アメリカ1.67・日本は3.80。


公共事業も2000年から始まる急減以前は、社会保障としての機能を果たしていた。


日本では、国家が直接生活を支えるセーフティネットではなく、会社や公共事業が社会保障の機能を担ってきた。


最初に上げた「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える比率の高さも、そのことと関係しているように思う。
簡単に解雇されない労働環境からドロップアウトした者に、シンパシーを感じる必要性を持たないということなのかもしれない。


近年その構図は崩壊しつつあるとはいえ、会社が社会保障を担うというこの形態は、社会をいびつなものにしているだろう。
会社単位の生活基盤は、社会としての連帯を分断しているのではないか。
個別の会社の存続に多くのリソースを裂き、会社を超えた労働者間の結びつきの意義を弱め、勤め人と個人の技芸で生活するものを反目させ、市民の成立を阻害する。
当の会社にとっても、重厚長大型産業が終焉したフェーズに入っている段階では、フレキシブルな経営の障害でもあるだろう。
若い人の正社員指向や、生活保護の不正受給バッシングも、会社単位の社会の思考形態がまだ根強く、社会の形態が実際にそうなっていることの証左でもあろう。


とはいえ、会社がセーフティネットであり続けることはもう限界を迎えている。国家にしても、かつての福祉国家は成立しない。
路傍に放り出された労働者は、自ずと「連帯」せざるを得なくなるのかもしれないが、こういう窮民革命が実際に起きるかどうかは怪しい。
個人の心掛けとしては自助をベーシックな領域に措定すべきだが、社会の設計は必要で、現状では、国家と会社と個人の担うべき役割を見直すという形でアプローチすべきだろう。


こういった社民主義的思考と自由主義的思考の相克という構図とは別の、それを超える可能性の追求は、また別途行われるべきものだ。
別途といっても単に思考実験に止めよという事ではない。それは同時かつ、別途に行われなければならないのだと思う。