経営者-消費者

中間層=市民社会が、寡占化された産業構造下での労働者のエートスであったとして、新自由主義的な状況下にあける「社会」いかに可能だろうか。
労働者の経営者化(裁量労働性、成果主義)で「社会」は零細経営者のロータリークラブとして想像されるかもしれない。
一方、消費者の安全要求は、有効なカウンターであるには違いなく、市場の論理に社会性を加味してゆく重要な契機として作動する。
しかし、消費者の求める商品を経営者が提供するというナルシスティックな円環の自足に外部は存在しない。
様々な「症例」や「犯罪」といったノイズの「解消」が、「社会」を形作る材料になる側面もあるように思えるが、同時に対策商品の開発に「ノイズ」は常に産出され続ける必要がある。
外部をもたらすものは宗教だろうか、あるいはかつてそう想像されたように芸術が、そのような力を持つことがあるのだろうか。