「都会のアリス」ヴィム・ヴェンダース

都会のアリスヴィム・ヴェンダース
ちょっと遅めの夏休み。世間が働いている中、まったりとした午後に見るヴェンダースは心地よかった。

ポラロイドカメラでかろうじて確認らしき作業を繰り替えす男と、母親に置き去りにされた少女の関係は、大人と子供という「自然」なそれが融解し、どちらが大人か子供か判然としなくなってゆき、世間を失った男は自身の行動の意味に気が付かない。
編集者や女友達の怒りを買い、中年女性や警察に不振の目で見られながらも、ずれているだけで「悪意」のない男は、それほど強い排除に出会うこともない。
こういうベーシックな条件を救い上げた作品を見ていると「克服」ということはありえるのだろうかと思う。「ベルリン天使の詩」は「克服」だろうか。
事態への「対処」や「緩和」は必要だとして、「克服」はコントロール可能なものだろうか。
アーキテクチャーの「設計」も「対処」の次元を超えるものではないだろう。存在の条件を決するテクノロジーの「革新」は「自然」に属する事柄なのだろうと思う。
「克服」への性急なアプローチがむしろより大きな惨劇を招くというのが歴史の教訓だろうが、批判を可能にする「外」を見いだす契機を失ってはならない。というより、そういう契機を求める動機そのものが無くなることはないだろう。あるとすれば、「外」を見いだそうとする動機を封印したいという利害だ。