九条という現実

憲法九条は超自我だという柄谷の議論は面白いが、にわかには信じがたい。
九条が戦後日本人の重要な指針として存在し続けてきたことは確かではあるが、九条を改憲しないで済ませられたのは地政学的な条件があったからだというのも確かだろう。
そして九条が軍事行動の拡大の歯止めとして機能してきたこともまた確かだろう。
「指針」であったり「歯止め」であったりといった機能も憲法の機能ではあるだろうが、それにしても「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」という文言は指針を超えて具体的に過ぎて現状とかけ離れている。
立憲主義というならもう少し文言と現実の差を少なくすべきだろう。
しかしそれでも九条は変わらないような気がする。そうなると九条は実質的には成文憲法というものとは別のものとして存在しているように見える。一種の信念・信仰のようなものとして。それは憲法というものに託すような性質のものではないのかもしれない。
それでも憲法という体裁を捨てずに存在し続けるということをどう判断するのか。憲法という性格を日本人は理解していないと切って捨てることは容易いように見える。
護憲派をリアリティを欠落した平和ボケとして批判する言説と、改憲派こそ戦争の惨禍というリアリティを欠いた愚昧さにあるという論議とは別の、曖昧だがこれを手放したら不幸が訪れるかもしれないという不安感を憲法に託すという歪んでもいるだろう現実を無視した議論は、憲法信仰告白ではないという教育ではあっても、それこそリアリティを欠いた通り一遍の議論のように見える。そしてそういうものは面白くない。信じがたいような暴論であったとしても、授賞式での妙なパフォーマンスであっても、面白味とは現実への到達深度のことだと思う。