「僕らは歩く、ただそれだけ」廣木隆一

「僕らは歩く、ただそれだけ」廣木隆一

不安からちょっとしたエアポケットにいるらしいキャリアの浅いカメラマンであるみゆきは、訪れた故郷でかつて自分が住んでいた一軒家に現在住んでいる女子高生と出会う。
田舎暮らしに辟易している女子高生は、希望を実現した輝かしい姿としてみゆきを「未来の私」と形容する。
みゆきはそれぞれの生活を始めている旧友や卒業校の生徒達を巡り、彼らの現在を肯定することで自身を肯定し歩き出そうとするが、肯定と言ってもそれは肯定しきれない状況を含んだ現状の肯定であり、画面は女子高生を始めとする故郷の「過去の私」に対して「私は元気です」とメッセージを送るみゆきの沈んだままの表情を映し出す。
「過去の私」は同時に「未来の他者」でもあり、そこでのメッセージにはある種の倫理と責任が発生する。充足感を得られないままでも「未来の他者」には肯定的なメッセージを送る。その「未来の他者」には自身をも含んでいる。
こういう働きは、現状を時間軸に沿って整理するとき倫理と責任が発生すると言い換えられるのかもしれない。


倫理と責任はエモーショナルに強く働きかけるが、それ自体が有用性を持って機能するというわけではない。
それは抑圧と支配と表裏でもあり、非倫理的で無責任な態度こそが解放をもたらすこともある。
現実には責任と無責任を同居させて、人は現状をどうにかこうにかやりくりしているというのが実際のところなのだろう。
表現としてそのうちの何を突出させるかは、それこそ政治的判断ということになるが、こう表現することは、つまるところ社会民主主義以外に選択肢がないということの表明にもなってしまう。