「SRサイタマノラッパー〜マイクの細道」

「SRサイタマノラッパー〜マイクの細道」が楽しみで毎週見ているけど、これがビシビシ来て仕方がない。
週末に、こういうドラマにビシビシ来られる中年男というのも無残な光景だけど(笑)
「サイタマノラッパー」は「リアルな大人」の世界の中の、しょぼいプータローの話で、プータローを単に賛美しているわけでもなく充分にそのどうしようもなさを意識しているが、「リアルな大人」と言われるような存在も団塊が前期高齢者に達した今、「若者文化」を徹底的に排除するような心性も実はもう存在していない。
「大人」と「若者」の薄まった共感と敵対の馴れ合いに過ぎないともいえるが、それでも排除は存在していて、それは「文化」とは別の経済が、というよりも他の理由はもはや意味を持たずに経済のみが排除の原理として浮上しているともいえる。
経済が要請するなら「若者の夢」でも性的マイノリティーでも、その願望を取り込んでマネタイズしていく。「サイタマノラッパー3」ではその「若者の夢」を食い物にするプロモーターが描かれている。
これへの対抗原理としてナショナリズムが存在するが、グローバル経済下でのその機能は低下している。そのことへの対処としてマルチチュード的な緩やかな類似性を持ってくるというものがあり、それも補完手法だろうが、やはり一種の修正主義だろう。
ピーターパンな「無残な中年」も実は一過性の世代的特徴として過ぎ去って、願望とマネタイズのマトリックス的な洗練された融合が進行するのだろう。
とかいう、ロンコーじみたことをせざるを得ない程度の喚起される動機は存在している。
そんな単線的な語りは外部の侵入/導入によって破綻するにしても。