ひとりパンデミック/邪教あるいは方便

田中裕子熱の拡大が留まる所を知らない。165cmの長身の体躯を駆け巡り、一回りを果たした後、次なるターゲットである神経系を侵食しはじめている。遺伝子の突然変異は淘汰され、世代をまたぎ、種として確立する日も、そう遠くは無い。
自身の中に巣くっていたらしい、ある何者かに形が与えられ、ターゲットを確定し、見据えるべき方向性を見出したことで、精神衛生の確保にずいぶんと貢献している。

これが偶像の力か。
キリスト教浄土真宗のような一神教型の思考法の持つ強い実践力に敬意を持ちながらも、どこかついていけないものを感じていたが、なにか参照点、それも理知的なものではない無限遠点を持つということは、主体的な選択の外にある力、その力が主体に属するか否かはともかく、主体的な選択行為の範囲外にある事柄なのだろう。
自分の「裕子熱」などは偶像崇拝未満で、それこそ「阿片」に近いものだが、日常生活において、精神衛生上、有用に機能している。盲目的な、ある根拠があってこそ活動は可能となる。日常生活の雑事の中で、その場その場で判断を下し、不意打ちを切り抜け、それらしい姿を保ち続けなければならないとき、偶像崇拝はリーズナブルな選択肢のひとつになる。