「実存」という感覚

「ヴィデオを待ちながら」というビデオアート展を見て改めて感じたのは、60、70年代にあった「実存」の感覚の重要性。この展覧会で紹介されていた60、70年代の作品は様々なコンセプトで作られて入るが、どれも「実存」をめぐっているように見える。それは、あまりにもありふれた60、70年代のイメージが自分にまとわり付いていて、もうそれから自由に、この時代のものを見ることが出来なくなっているのかもしれないが、やはり、それだけではないだろう。

「実存」の余韻が消えた後の現代美術の試行錯誤はテーマパークやプロパガンダとしてしか機能しない。我々はもはや「実存」を信じることはできない。「実存」という言葉の強烈な副作用にのちの時代が抵抗したのも当然だ。しかし、そこで指し示されていたものが霧消するわけでもない。消えた「実存」はマーケットに吸収され「自分探し」になる。それへの抗いとして「差異」であったり、「他者」であったり、近年では「承認」であったりする。しかし、それらのキーワードは「実存」の存立基盤を説明はしても、主体に働きかける力は弱い。「実存」が触れえていたある領域への感覚があってこそ、それらの言葉に力は発生する。あるいは「差異」や「他者」は、その感覚獲得のインフラ整備を担当しているといえるかもしれない。
この「実存」に相当するあるものは、資本主義経済に生きるものにとって、クリティカルポイントであることに変わりは無い。