「二十四の瞳」で思い出した先生

二十四の瞳」の映画を見ていて、小学生の頃の女性の先生を思い出した。
その先生は1年のときの担任だった人で、自分が6年になったときに、音楽の担当教師として再会した。6年のクラスには、もうひとり1年で同級生だった男の生徒がおり、その先生は自分と、もう一人の男子生徒に対して特別な態度をとっていた。特に贔屓をしたりしたわけではないけど、明らかに特別な思い入れがあるという風で、自分はそれを嬉しく思う反面、疎ましさも感じていた。その先生にとって自分たちが、どいう存在だったのか何も分からないけど、そういう視線で迎え入れられたことは、自分にとって重要な財産になっていると思う。

中学になって、小学6年のときの担任の女の先生に友人たちと会いに行ってラーメンをおごってもらったこと。高校になってから中学3年で同級生だった友人と一緒に登校しているときに、中3で担任だった、いつもティアドロップのサングラスをかけている男の先生がアメリカンタイプのバイクでの通勤中に自分たちを見つけてクラクションで挨拶してくれたこと。

二十四の瞳」では、先生は泣いてあげることしか出来ないというセリフを言う場面があるが、それこそが真に意味を持つ行為のように今は感じる。

もちろん教師は職業であり、日々のルーチーンワークが業務遂行にとって重要な仕事だろう。学園ドラマのような熱血教師を夢想するつもりはないし、すべきでもない。しかし、業務というカテゴリーに還元しきれない動機こそ、業務というカテゴリーを成立させている条件でもあるのだろう。

坂口安吾は「墜ちよ」と言った後に、しかし人は墜ちきるほどに強くはなく「天皇」を担ぎ出さずにはいられなくなるだろうと言う。

二十四の瞳」の主人公、大石久子は教師としては慈愛の眼差しを生徒に向けるが、家庭では、ごく普通の娘として、妻として、母親としての姿を見せる。大石久子の"愛情”は教師というカテゴリーが生み出したものであると同時に、そのカテゴリーの求める役割の遂行を困難にするものとして働く。