「愛の山田うどん」北尾トロ えのきどいちろう

「愛の山田うどん北尾トロ えのきどいちろう
外食チェーン店を言説の俎上に載せる場合、多くは近代批判の文脈でなされる。
それに対比させられる形で、昔ながらの商店街や個人商店の持つ関係性が称揚されるか、老舗の洗練された技能や、エコロジカルなロハス、ディープなB級サブカルといった「こだわり」がピックアップされる。
あるいは逆に「近代的貧しさ」にアイデンティファイして過激さを売りにする。
ここではエドワードホッパーを引き合いに出し、山田うどんに近代的な貧しさと、それでもそこにある豊穣さ、とは言えないかもしれないが、資本の運動に対する肯定とも否定とも付かない折衝主義的ともアンビバレントとも言いうる、誰しもが当たり前に持っている感慨を、ある種のかけがえの無さとして掬い上げようとする。
彼等も自身が見出す山田うどん的なるものが、実体としての山田うどんや、山田食品産業株式会社と一致するものでないことは踏まえた上でのことだろう、その大仰でユーモラスな語り口をもって、山田うどんが保持しているという「過渡期の匂い」に、冗談めかした面白さとして焦点を合わせる。
この本の中でソウルフードという言葉も出てくるが、伝統に刻み込まれたものとして言われているのではないだろう。
あくまで過渡期の、頼りのない、それを語ろうとすればすぐさま固着した言説として塗り込められてしまいそうになるリアリティの周りを周遊する。