「百物語」森鴎外

「百物語」森鴎外
写真を道楽にしている蔀(しとみ)君と云う人であった。いつも身綺麗にしていて、衣類や持物に、その時々の流行を趁っている。或時僕が脚本の試みをしているのを見てこんな事を言った。「どうもあなたのお書きになるものは少し勝手が違っています。ちょいちょい芝居を御覧になったら好いいでしょう」これは親切に言ってくれたのであるが、こっちが却ってその勝手を破壊しようと思っているのだとは、全く気が附いていなかったらしい。僕の試みは試みで終ってしまって、何等の成功をも見なかったが、後継者は段々勝手の違った物を出し出しして、芝居の面目が今ではだいぶ改まりそうになって来ている。つまり捩れた、時代を超絶したような考は持ってもいず、解せようともしなかったのが、蔀君の特色であったらしい。さ程深くもなかった交が絶えてから、もう久しくなっているが、僕はあの人の飽くまで穏健な、目前に提供せられる受用を、程好く享受していると云う風の生活を、今でも羨ましく思っている。蔀君は下町の若旦那の中で、最も聡明な一人であったと云って好かろう。