「0.5ミリ」安藤桃子

0.5ミリ安藤桃子
自らを「未来がない」と規定する山岸サワは、老人の元で住み込み家政婦として生活するわけだが、その老人たちは経済的に豊かではあるものの家庭は機能不全に陥っており、ヘルパーの技術でもってサワはその隙間に入り込む。
家庭内労働を外部化したものがヘルパー業だが、そのサービス化され抽象化された介護職という技能を再度内部化して専業主婦のように振る舞う。
しかし、それは再生産の機能を省いた擬似専業主婦であり、その抽象性と専門技能から生まれる遊戯性が可能とするようなルートを介して経済合理性以外の領域を触知しようとする。


一方、関係性だけではなく経済的にも破綻している佐々木真(と自身の内的)救出劇では、介護職で培われた職能スキルを使用できる場面は少なく、再分配によって破綻から離脱する。


それらの行為は社会的には、経済成長によらない持続可能性の模索とパラフレーズしてもいいだろう。
ストックの有効活用と再分配は共感可能性の中で可能になるが、それは現実には共感範囲の限定作業を抜きには行い得ない。


映し出される海辺の残照は過去と未来をどこまでも包み込み、時間的な垂直軸を限りなく美しく響き渡らせる。
しかしその水平線も永遠ではない。その彼方には別の生活が存在し、そこから生まれる共時的な関係は共感可能性の限界の外に位置している。