「この世界の片隅に」

この世界の片隅に
目の前に立ち現れる状況に対して「困ったねぇ」とつぶやきながら笑顔で受け入れる、のんびりとして時流からどこかずれる北條すずの造形に、観客はイノセントな解放と、かけがえのなさを見出す。
兵役につく幼馴染は、すずに「普通」で居続けて欲しいと語る。ここでいわれる「普通」は、すずの存在に投影したイノセントなもののことだろう。
状況を自然現象のようなものとして受け入れようとするすずは、「自分の戦い」を懸命に引き受け、不幸を自分の落ち度として受け止め、敗戦に誰よりも衝撃を受ける。
「普通」というなら、憲兵を笑い、玉音放送に冷めた反応を示す主婦たちの方が、はるかに「普通」であり健全であるといえる。
世界の片隅で自分を選んでくれたことへの感謝を口にすることは、世界の中心で何やらを叫ぶことより真っ当だとはいえ、それもやはりナルシシズムの裏返しでもある。
もちろん世界には中心があり、階層があり、周辺がある。しかし、そこに回収できない領域は残り続け、その秩序と外部を生きているのは、すずよりも周りの登場人物たちであるが、その秩序と外部の存在を明瞭に浮かび上がらせるのは、すずという存在である。
この、あまりにも見事なアニメに感嘆せずにはいられない一方で、小林秀雄の有名な文章「この事変に日本国民は黙って処した」という言説に親和性が高そうに見えることに懸念も覚える。