<問い>の問答

気鋭の禅僧ということになるのだろうか、南直哉、玄脩宗久、二人の禅僧の対談集。
興味深く読んだけど、まとまった感想が出ないので、面白味を感じた部分をいくつかピックアップ。

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奈良仏教がことごとく「葬式はしない」といっていたなかで、死者、あるいは遺族を目の当たりにしたときに、「手をこまねいてはいられない」と判断した禅宗真言律宗があったわけです。けれどこの死者供養を引き受けたことで、仏教はどこまでも混沌としていきます。

死者というものを考えたり思ったりすることの意味を、「ある」とか「ない」とかでけりをつけられないし、つけてはいけないのです。もしつけたとしたら、おそらく宗教の言語は閉塞していってしまうでしょう。

最後になると、あの方(親鸞聖人)は阿弥陀仏さえも要らなくなってしまったのではないかと思うのです。つまり、「自然法爾」という、あの時点で仏教は終わっていますよね。

仏教や信仰がコミュニケーションであるなら、まず自分にとっての仏教とは何か、信仰とは何かを設定して欲しいわけです。そのうえで、その設定に基づいて何を問題とするかを語る。それをしないまま、最初から「正しい仏教はこうです」「こうしなきゃいけないんです」「これが真理です」などと言うな、ということです。

仏教を一種のイデオロギーにして、観念体系に還元してしまうと極めて危ないことが起こる。「無常」とか「無我」、「涅槃」といったものを、観念のなかでガチガチに構成してしまい、それを原理として押し出して教団をつくり、実践しようということになると、ひじょうに危ないことになる。

そもそも自己存在が<物語>的な存在ですからね。だから、その主体は「仮説(けせつ)されたもの」だということをつねに意識せよいうのが仏教の立場だとしたら、「<物語>は便宜上必要だけれども、まともに信じちゃ駄目なんだ」というところは、どうしたって失ってはいけないと思います。

「鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか」という問答がありますね。それをよく、「鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか、鐘と撞木の相が鳴る」というところで落ち着けちゃうんです。鐘と撞木が出会ったことが鳴っているー。これは一見正しそうに聞こえます。けれども、そうじゃない。「出会ったときに鐘と撞木が発生する」わけですね。

方便が許されるのは、「発言者がその責任をすべて負う」という覚悟があり、「それ以外には言いようがないということが、自分からではなく相手から迫られたとき」です。 だからこそ大事なのは、それをぜったいに普遍化できないということです。