「さようなら、私の本よ!」大江健三郎

主人公の長江古義人という老齢の小説家の中にある“おかしなところのある若いやつ”は、自信の内面にそれを抱え込んだ葛藤として描かれることは無く、周りに出てくる若い登場人物に、ゆるやかに仮託され展開していく。
老齢の小説家、長江古義人は今まで ー世界の事柄を自分の問題として書いてきたー という内容のことが小説の中で言われているが、それは同時に自分の事を世界の事柄のように書くことでもあっただろう。
大江はここで老齢の問題をそれ自身として描いている。

ー自分の死後の社会の発展に望みを託す人間はいますよ。しかしぼくについていえば、自分の死後に世界が滅びるのと核廃絶が行われるのと、どちらがありうるか、と考えることもなくなりました。

ー今日は自分が死ぬ日だとわかってる朝、新聞を隅から隅まで読んで、核廃絶の気配はないと観念して、ワーワー泣く。

ーこの心理的な苦痛としての失望感も、数時間たてば自分の死で消滅する、と知ってるんです。むしろ安心感のなかでワーワー声をあげて泣いていました。 

小説の最後に長江古義人は未来の若い世代に希望を託す仕事をする。しかしそれも未来の世界を憂いて行うというより、自身のモチベーションの発露先として選択されているように思える。

こういったエゴイスティックな動機を核に据え続けながら、それを世界大の神話的なスケールとリンクさせ混濁させるところに大江の小説家としての真骨頂がある。

漱石は自分の袋は自分の錐で破るより他に道は無いと言ったが、この「個人主義」は、どうしようもなく孤独でありながらも、同時に他と比べることがそもそも意味を成さない個別性をもっており、そのことが開放をももたらす。

大江はこの個別性と一般的な問題を混濁させるが、そこにはある線引きが行われており最後、一般的な問題と共有不能な個別性を手放さずにいる。