目に余る写真

写真を撮りに出かけ、ふらふらと景色を見ながら歩いていて面白いと思ったものがあったのでカメラを向けて覗いてみても、その感じた面白さと合致しないことがままある。近づいたり遠ざかったりアングルを変えてみたりしても、どうも初めに感じた面白さに近づかない。そういった場合の面白味はカメラのフレームが切り取る面白味とは別のものを感じているのだろう。周囲の喧騒感であったり、時間軸を必要とする物語的なものであったり。それら雑多なベクトルを孕んだ面白味のゆらぎを、カメラというシステムに落としこむ、あるいは面白味のゆらぎのなかから、システムに適合的な要素のみを抜き出す。そこでは何がか切り落とされ断念される。
一方、カメラによって導きだされ発生するゆらぎも存在する。“絵になる”という欲望をカメラは生み出す。目の前にあるものが“絵になる”などということが倫理的に許されるはずがないという憤りと、切り取ることへの暴力的な快楽。カメラのフレーミングへの要求は、眼前の対象に対してあまりに露骨で直裁的である。
直接対象にレンズを向ける動画に比べても、写真の暴力性は際立っている。動画は世界に存在する時間軸と音声を掬い上げる。その分世界に対して融和的であるといえる。映画には物語が存在し、世界解釈の暴力を導入するが、動画自体に物語の機能はない。
物理的な時間軸を持たない表現である絵画、具象画の対象の平面キャンバスへの再現前の創意は、完全に理知的な行為であって、対象との隔絶を保持する。
写真が他の手法と質的に断絶しているわけではないにせよ、その露骨さは目に余る。ある現実を見た自分が“絵になる”と判断し、シャッターを切る。のちにその写真を見ると、そこには撮影時には意識の網目に掛からなかった様々な事物が写り込んでいる。絵として知覚のシステムが許容する構図の元に、それらの事物は収まり、何事かを語りだす。元来、構図などとは何の関わりもなく存在する物。あらゆる雑多なベクトルを孕んだ無限のレイヤーが交錯する事柄。移ろい変化し続ける事物達が、構図の元に動員され、役割を付与され、作品に仕立て上げられる。目が握持し、且つ目が捉えられなかったものが、静止した画像によって再提示され、目に余ったもの達に役割が発生し、同時に目が発生して見返し始める。
見返すものは、あくまで写真であってそこに写っている事物ではないと言うことはできる。知的には。しかし、受容の現場では事物が見据え、語っているはずで、その有りようが光景としても目に余る。