パフォーマンスとしてのアナキズム

官僚制への抵抗としてのアナキズムは、中間集団と結びついてこそ力を得る。
しかし、中間集団の消滅した社会においてアナキズムは、一種のパフォーマンスとして、フィクショナルな、ただしそこにコミット可能な動機をみいだせるような、ある抽象性と祝祭性を持ったアートとして存在することでのみ、一定の力を獲得することができる。
ブルジョワジーとアートが補完関係にあるのと同様に、官僚制とアナキズムは、進行する官僚制に対するガス抜きでしかないのかもしれない。あるいは良くても修正要求以上の意味はないのかもしれない。
アナキストの心性の核には、祝祭性への刹那的な耽溺があるという。カタルシスへの指向は政治的にはファシズムに帰結するのだろう。しかし、決定的に正しい方法論など存在するのだろうか。
持ち場持ち場の地道な活動は当然前提されるべきだが、「持ち場」で人は真に公的には成り得ない。「持ち場」を離れることで得られる公も存在する。