スーパーコンピューターとミライ

スーパーコンピューターを取り上げたTV番組を見たけど、番組の構造は常に反復されるもので、最新コンピューターの性能がヒトのそれを凌駕し、ヒトの特権性が奪われるディストピアを描いた後に、コンピューターの落とし穴を描いて安堵を与え、最後にヒトとコンピューターの調和を目指す。
物語の構造は構造としてひとまず置いて、そこで得られる知見というものもまた別にあるので、物語の反復には目をつぶってもいいとも言える。
こういったコンピューターやバイオテクノロジーなどと社会の在り方を取り上げるものを見て思うのは、コンピューターの性能が向上し、生活の隅々に行き渡り、ヒトの担うべき役割が変化を起こし、コンピューターが身体にもビルトインされ、バイオテクノロジーが身体の各部を再生し、ホモサピエンスとしての身体能力の限界を超えて、もはや人類が別種の生物あるいは生物でもない何者かに変容し、社会の有り様が根底から変わろうが、その事自体は、だからどうということでもないのではないかということ。好きになりたいものになればいいと思うし、社会が変われば、変わったなりにやっていけばいいと思う。
重要なことはそれで人と人との間に何が起きるかということ。もっと有り体に言えば、誰が得をして、誰が割を食うかということ。