「ブラインド・マッサージ」ロウ・イエ

恋と革命の監督は、閉塞のシニシズムから閉塞の狂気へと向かう。目を閉じて得られる幸福は諦念なのか皮肉なのか。人は閉塞に対してシニシズムで高を括りつづけることはできない。否応もなく現実は迫り、取るに足らない些事が相対的に肥大してゆく。「主流社会」に紐づけられた場所に見出される共同体は淀み崩壊する。ガラスの天井(実質はカーストだが、生産者して市民と同等の形式的権利は持つ)が外を遮蔽するからだ。

「闇を見る目」という言葉は、文学的修辞でもあり、実践的なよすがでもあり、そしてたぶん、そこに外部への一縷の望みも賭けられている。

目を閉じて得られる幸福は批判されているわけではなく、それもまた生の知恵だ。そして、そこも留まり続けられる場所というものでもない。いつの日か外部への足掛かりが触知されるだろう、その時、人はまたぞろ蠢きだすのだ。