なぜか中期 ー転がるほどに丸いお月さん見にー

陽水の中期のアルバムに、またハマっている。
20代の頃よく陽水を聴いていたが、その後は関心が薄くなってiPodのシャッフル再生で流れてくれば聴くというくらいだったが、ここに来てまた陽水浸けの様相を呈してきた。中期の陽水というカテゴライズが一般的に存在するのかどうか分からないが、「招待状のないショー」から「9.5カラット」まで、1976〜1984年までの間のことで、この期間をひとつの区切りにしてもいいだろうと思う。

着火の原因は、またしても田中裕子で、「ザ・レイプ」で、酔った田中裕子が陽水の「青空ひとりきり」(ライブ版だろうか、アルバムとは違うアレンジのもの)に合わせて踊るシーンに魅せられた。踊りといっても技巧を駆使したダンスといったものではなく、沸きあがってくる激情に突き動かされながらも、適切な形式を見出せないまま、複雑な激情を出来合いのスタイルに落とし込むことをせず、戸惑い、抵抗しながらも、表出の経路を求めて身悶えるといった、いかにも田中裕子らしい複合性が陽水の同様の複合性にシンクロしている。(その田中裕子と陽水をシンクロさせた監督の東陽一にもふれるべきなのだろうが、どういう訳か今はそういう気になれない。)

20代の、陽水にハマっていた頃、初めてこの中期のものを聴いたときには、何とも中途半端でゆるいもののように聴こえたが次第に魅了されていったことがあった。今回も同様で、初期の「氷の世界」などを聴いて、ああ、やっぱりいいものだなと思い、改めて中期のものを聴いたときには失望を覚えた。

中期の陽水とは高度成長期を終え、ポストモダン化していく社会の過程での、期待や、不安や、開放や、失望などを歌謡曲というスタイルで体現したもので、その雑食的な複合体が中途半端なゆるさと感じられると同時に、その時期に成長期を迎えた自分にとってリアリティを感じさせるものでもあるのだろう。

田中裕子や、井上陽水という存在に入れ込むことは半端なことで、ゴダールやグレングールドの「出来事」の「事実性」に驚嘆する一方で、パフュームや、美少女アニメの「過激さ」を賞賛したりすることのほうが、かっこいい、というようなことも思わないでもないが、自分にはできない。凡庸な文学主義近辺に居ることを自覚しながらも。