朝日新聞の「どらく」というサイトに載っていた、野球の工藤公康インタヴュー に感心。特別なことを言っているわけではないけど、その、まっとうなスタンスに打たれる。こういうインタヴューというものは、真の本音というよりは、こうありたいという夢が混在しているものではあると思うけど、それも含めて、このスタンスが今のこの人にとって、有用なものであるのだろう。

こういうスタンスの獲得には、人によってそれぞれのバイアスがあって、“まっとうさ”といっても、確定可能な一点が存在するわけでもない。それぞれが、それぞれの穴を掘り下げるしかなく、自らのルートで世界と関与する以外にないのだろうとは思う。しかし、それを一種のモナド論にまで確定すべきではない。やはり「窓」はあるのだと思う。そこには等価交換の成り立たない領域が、たぶんある。あると言えるものではないのかもしれないが、モナドの完結に揺らぎが生じないとも考えにくい。自らの穴を掘り下げて世界へと開かれるというルートの想定は、実践的ではあっても現実ではないだろう。

“まっとうさ”とアートは一見関係のないもののように見える。娯楽としての扇情性と、社会学の対象としての病理性だけがアートの存在価値であるかのように語られる。まっとうな価値を語る工藤も、常人を超えた異様な身体パフォーマンスを示さなければ興行野球で集客することはできない。

とはいえ人はドーピングで水増しされたパフォーマンスが見たいわけでもない。異能の者達の饗宴は、ある正当性の下支えを必要とする。

文化としての正当性は揺らぎ続ける。しかしそこを超えた領域に関わる正当性というものも、これもまた明示不能ではあっても、あると想定しないですますことも出来ない。文化相対主義は権威を退けるが、現状肯定の口実としても機能する。

カテゴライズは便宜を意識している限りにおいて肯定される。問題は知性の暴走にある。一見、知的と見えないものにこそ知性の暴走が現れる。そもそも知的、あるいは言語的でない人間は存在しない。