「桜桃の味」アッバス・キアロスタミ

自殺志願の男は、しかし自身が死と生のどちらを選択するのか決定しきれず、その顛末の確認に他者を必要とする。

その為の相手を高額の報酬を持ってスカウトするが、単に経済的に貧窮しているというだけでは引き受けるものはおらず、スカウトされた側は降りかかってくるであろうその後の責任追及、社会通念や、教義への背徳、人生哲学などを理由に抵抗する。

男は仕事の内容ではなく、そこで得られる報酬という交換価値の大きさを語り、行為の対象は人ではなく物であるとすり替え、神学生には教義の脱構築でもって説得を試みるが成功しない。資本の論理に社会が抵抗するからだ。社会などというものから遠く離れたかのように見える建設現場の造成地で。

娘の治療費という、親族の存続を必要とする相手に対して仕事依頼の了承を取り付けるものの、それが確実に実行されるという確証は得られない。男は相手の倫理的逡巡には関心を持たず「仕事」の遂行のみを求めるが、希望する行為を遂行するための倫理を相手には求めざるを得ない。ここで求められる倫理とは社会通念としてのそれではなく、そこには根拠を欠いた絶対的な倫理といった相貌が忍び込むだろう。そこにどのようななイメージを付託するかはともかく。

男は承諾した相手の職業を知ったとき、当初の想定の修正を行う必要に迫られる。

男はレンジローバーを運転し資金力もあるようだが、それも関わらず目的の商品を購入できない。了承を取り付けた相手にシミュレーションを行い、手附金を手渡そうとするが、市場そのものに使用価値を担保する機能は存在せず、どこまでいっても男の不安が解消されることはない。

商品が売れる時、そこに「命がけの飛躍」が存在するのと同様、商品の購入というフェーズにも、そこに期待する使用価値が存在するのかどうかは、購入して使用された後にしか確かめられない。そこにもまた信用という陥没地帯が存在する。