無邪気さの擬制

無邪気さによる既存秩序の解体は、子供が珍しいものに戯れるように、他意を持たずに、ただただ面白がって玩具を壊すように価値を解体しているという擬制としてある。

無邪気さ徹底すれば規範のルーチーンを批判してスローガンの元で見えなくなっている問題の所在を明らかにする効果はあるが、幼児のような無邪気な戯れというフィルタリングによって位置付けられたそれは、あたかも根源的で変更不可能なものである印象を付与され、その地平に還元して等置しフラット化することは、現実をある種の美に還元する芸術至上主義であり、フラット化による解体の様相は、価値の転倒ではなく価値の追認に至るほかはない。

悪意のない子供のすることといったエクスキューズで批判を回避しながら、現実の露呈という「成果」を手に入れようとするこの手法は、共同体、宗教、イデオロギーが衰退し、商品経済が全面化した状況において、生理的な反応やそれに近い行動に対抗点を設定しようとする行為ではあるが、しかし生理でしかない以上、他の方法にも増して容易に現状肯定のイデオロギーに陥る。