「ゆれる」

TVで「犬神家の一族」の’06年版をやっていて、30分程見ていた。
30年の時を隔て、オリジナルと同じ監督で、同じ俳優を使い、同じ構成で作り上げるという、ほとんど実験映画のようなこの映画を見て、誰しもが感じるであろうチープさを自分も感じていた。特に俳優陣の存在感の薄さに、“劣化の進行する日本社会の我々”をオーバーラップさせ、暗澹たる気分になりかけていた。
しかしこれは不当な評価だろう。かつての映画のように演劇的要素をたぶんに含んだ重厚な演技に基づくタイプの映画は、もはや生み出せないということであり、現代の映画が劣化してるのではなくフェーズが変わっているのだ。それを鑑みないで作られたのが「犬神家の一族」’06なのではないか。いやいや、もしかしたら鑑みるためにこそ作られたなんてことも...。
と、そんなことを思いながら「ゆれる」を見た。
現代の日本映画によく見られる繊細でナチュラルな演技、演出に引き込まれ、特に香川照之が見せる表現を見ていると、かつての俳優、あるいは俳優も含めたかつての映画が、これを生み出すことが出来るだろうかと思った。
「ゆれる」はこれも現代日本映画に特徴的なソフィティスケートされた心地良いエンターテイメント性を纏っている。そのことを甘さとして指摘することも可能だろうが、かつての映画もその大振りな演技は別種のエンターテイメント、甘味として機能していた。
ただ現代の表現にはバリエーションが乏しく、多くの感情をカバーできる持ち札が揃っていないということはあるだろう。