「透徹した視点」

ある行動があって、それを遂行するための条件が、その行動の外で否認されているとき、その条件の存在は無視され議題の俎上に上げられることはない。
それを指摘し、現実を見るべきだという発言は、多くの非難を浴びながらも、一部の者から透徹した視点として称賛を受ける。
「透徹した視点」は、その「行動」を是認した上でのみ「透徹」として意味を持つ。
そもそも、そういった条件を必要とする、その「行動」を否定するのか肯定するのかが、根本的な選択としてある。しかし、そんな「根源的な問い」は現実には、あまり意味を持たない。
一方、「透徹した視点」は常識的に処理される曖昧さを指摘する機能は果たすが、「透徹」は「行動」をそれ以外の社会から切り離して純化することで可能になるのであって、それもまた抽象的な非現実の次元に属している。