「大江健三郎のアレゴリー」柄谷行人

【抜粋】

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アレゴリー的な作品が評判が悪いのは、自分の特殊的な事実を棚に上げて、一般的なものを語ろうとしているようにみえるからである。しかし、アレゴリー的作家が個別性にこだわっていないというのは誤りである。むしろその逆なのだ。シンボル的小説において、特殊(個別)なものが一般的でありうるというのは、あるいは、他人のことが「自分のこと」のように共感されうるというのは、一つの装置でしかない。ここでは、けっして一般性(類)に入らないような個別性(単独性)が切り捨てられている。個物を深く掘っていいくと一般的なものが見いだされるというのは、すでに個物が一般性に属しているということにほかならないからだ。また、ここでは、固有名は、その前に存在する実体としての個に付せられた任意の記号でしかない。しかし、固有名はけっして一般性や集合に帰属しないようなある単独性を指示するものだ。この意味で近代リアリズム(ノミナリズム)は、固有名を利用しながら、本当は固有名を抑圧するものである。

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この熱い「期待」の感覚は、「僕」という語り手のものでさえない。それは、この作品の基底に存する気分であり、「存在感」そのものである。事実、この書き出しにおいては、「僕」という言葉は省かれている。「僕」は、このようにして、状況そのものを暗喩するのである。しかし、大江が完全にフィクションとしての視点をとらず、つねに「僕」として語ることは、何を意味するだろうか。
それは特殊性に徹することによって一般性を獲得するといったものではない。かといって、特殊性が捨象されているというのでもない。彼の文体は、読者に感情移入を強要するが、同時にそれを排除する。たとえば『個人的な体験』に大江の「個人的な体験」を読もうとする者は失望させられるだろう。かといって、そこに一般的な寓意のみを読み取るには、ある生々しい特異性(単独性)がきわだつのである。

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