いつの時代も若い人は美しく、時代の先鋭的な問題を体現している

「われに撃つ用意あり」という映画のDVDを借りて見たら、昔見た事があったものだった。30年近く前だっただろうか。当時は馬鹿馬鹿しくて仕方がなかったが、今回そう気にならないで見た。
年齢という事もあるんだろうけど、時代が一回りしたんだなぁとも思った。「クリスタル」な時代にやけくそのように描かれた作品といえば、つげ義春の「無能の人」も思い出す。ある評論家は「無能の人」を評して、もはや今日においてかつてのような貧乏は不可能であり、この作品はパロディとしての貧乏であり、自分探しの就職情報誌のようなものだといっていた。
そんな時代の気分は、格差社会やロスジェネと変わり学生のデモに多くの賛意が寄せられるようになった。
Twitterでいくつか見掛けたものに、年長者が学生のスピーチを前に、自身の若い頃を冷笑家と極端に自己否定しているのもがあった。
いつの時代も若い人は美しく、時代の先鋭的な問題を体現している。
カールシュミットがシニシストから敬虔なクリスチャンへの転向をロマン主義者の典型として描いていたと思うが、柄谷行人はそこにフロイトの言葉を持ってきて、戯れの反対は真面目ではなく現実だ、と語った。
その人が成長期にかけて獲得した基本的なスタイルを変える事はできないのだと思う。しかし、そこを基盤に「現実」に切り込むことは可能だろう。というより、それ以外にやりようがないはずで、そこを離れた行為は見かけの差異に関わらず戯れと化さざるを得ないだろう。