排気量マウントという物神

バイク界隈には「排気量マウント」なる言葉があって、それはより大排気量の車種を所有している者が、そのことで優位に立とうとする行為をさすが、そのことに対して、確かにそういう行動をとる者がいるという意見もあれば、それは小排気量モデル所有者の被害妄想でしかないという意見もある。

それらのどちらに真実が存在するのかを調べる方法は知らないし、エビデンスを提示する気力もないが、有り余る可処分所得を、あるいはその大半をつぎ込んだであろう水平対向2気筒エンジンの大型アドベンチャーモデルから降りてきた中年男性が「コレなんシーシー」といって近づいいてくる絵面を想像するに、そこに「排気量マウント」の存在を想定しないでいることが難しいことは理解できる。

バイク趣味は他の趣味に比べても個人的な要素の強い趣味で、米国製空冷V型2気筒車や400cc並列4気筒車のカスタマイズによってトライブ意識を高めることが優先されるカテゴリーもあるが、おおむね単独行動がメインと考えていいだろう。

ライディングというスポーツ性はあるものの、そこでは社会的な階層から逸脱して個的な存在を意識するという行為そのものが趣味性として存在する。

他方、社会システムやテクノロジーによる効率化や快適性からの逸脱は、個人的な力量によってリスクを乗り越え達成するというある種の崇高さとも結びつく。

バイクという商品はそれ自体ロマンチシズムで成り立っており、また高額なモデルにはより高い階層イメージを付与することは商品価値の増大には不可欠となる。

個々のライダーたちは階層から逸脱し、それぞれフラットな存在として等置されるが、バイクという商品には階層性が紛れ込む。社会階層から逸脱する単独性と崇高さは、それを足場に商品として転嫁し、そのことでさらにその趣味性は拡張されながら展開していく。

排気量マウントをするような人間がそれほど実在するとは思わないし、大排気量車の所有者もそのことで得られる優位性などに意味がないことは理解している。しかしそういった本人の意思に関わらず、バイクという趣味性と商品特性から個々個別に存在するライダーたちを覆って物神としての排気量マウントは徘徊し続ける。

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ちなみにベスパ プリマベーラ150にような原付チックなスクーターに乗っていると、二段階右折をしなかったとパトカーに追いかけられたり、高速道路の係員に断られたり、ドイツ製高級乗用車に割り込みされたりしがちだが、有料道路を原付料金で通行できたり、交差点で軽自動車を運転するお姉さんに優しい笑顔で道を譲ってもらったりといいこともあるが、これは排気量マウントとは関係のない話。そもそも崇高さとは縁遠く、それ故に排気量マウントからは自由=歯牙にも掛けられない圏域にいる。