「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」

名作の呼び声高い「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」鑑賞。

これが当時どう受け取られたのか知らないけど、ポストヒストリカルな状況と関連付けられたのだろうとは思う。今の時点で見ると、古典からの引用が多かったり、学園闘争のイメージがあったりすることに興味を持つ。「ポストヒストリカルな状況」を作品として表象することと、ポストヒストリカルを生きることとは違うことなのだろう。コラージュされた「引用の織物」をイメージとして具象化するには、歴史を知っていることが必要で、本当に歴史の感覚が無ければコラージュそのものが成り立たない。だから歴史を知らなければならないとか、イメージは所詮イメージであるとかと言いたいわけではなく、また、歴史意識が高まったり、薄まったるする変遷に決着が付くとも思っていない。ただ、こうやって自分の経験の範疇にある時代を振り返ってみると、自分なりに歴史は存在するのだという感覚が出来る。

それにしても久しぶりに見るラムちゃんは魅力的。この作品よりさらにひと昔前なら、田舎娘として造形されていただろう女の子は、近代を相対化しうる地方の消滅で、宇宙人の姿をとる。とはいえラムちゃんをあまり意識した作りになっていないのは、宇宙人としても、もはや存在不可能になっていたのかもしれない。こういう楽観性は、今なら職業としてのメイドが担うのだろうか。

ラムちゃんの魅力はビジュアル面におけるキャラクターデザインや、田舎娘的な立ち位置もさることながら、声優の魅力に因るところが大きことを再認識。夢邪鬼の藤岡琢也も圧巻。

小栗康平が日本のアニメは紙芝居のようなもので、声優の劇としてあるというようなことを言っていたと思うが、二次元だのなんだのといいながら、声がリアル声から離れることを想像することは難しい。絵はどこまでもデフォルメ可能だが、声優の芝居はせいぜいアニメ風の味付けをするに留まる。