「わたしたちに許された特別な時間の終わり」岡田利規

久しぶりに退屈を感じることなく小説を読むことが出来た。
最近は小説を読んでも、そこに出てくる主人公が何を感じようが、作者がどう描写しようが、そんなことは知ったことではないという気分がどこか付きまとい、社会学者や心理学者の気分にでもなって”研究”でもしないことには、読み続けにくい感じを持つことが多い。まったく自分の個人的な感覚でしかないが、これは最新作でも、古典でも同じような気分を持つ。それが、この小説にはあまりそういうことを感じることが無く読み終えることが出来た。
しかし、それは、ここに出てくる登場人物に共感できるとか、描かれている事柄に興味を持ったということではない。男と女の視座が入れ替わるギミックも、その男も女も、同じような文体で語るので、視座の入れ替えが差異を生むというより、結果的にむしろ平板な均質性を強調している。

この小説の面白さは、ひとえに、ここにある文章の魅力に尽きる。

物事をひとつひとつ明晰に確定していきながらも、それらが積み重なることなく併置されていく。
小気味のいい文章は、その密度を高めていってカタルシルに向かいそうな予感を湛えながらも、ひたすら併置され続けるが、その併置は混濁の表象を目的としているわけでもないだろう。技術的な計算として、そのような効果を狙った面はあるだろうが、ここにある文章の真意とでもいえるものには、そんな効果に収まらない衝動がある。

答えを確定しようとする欲望と、それに抗うリアリズムが、軋みを立てる。ただ、明晰なだけでもなく、ただ、ずれていくだけでもなく、統合不可能なベクトルが生み出す文章の軋轢。